2012年5月16日 (水)

後生の一大事とは_その1

後生(ごしょう)とは仏教の言葉で、
「後」に「生」まれると書くように、
死んだ「後に生まれる世界」のことです。

「後生」というと何十年も先のことのように思いますが、
今晩死ねば今晩から後生です。
それどころか今吸った息が吐き出せなかったら、
今吐いた息が吸えなかったら後生。
後生は今の一息一息にふれあっているのです。
襖一枚隔てて接する隣の部屋のようなもの。
襖を開けて入っていけば、もう後生です。

老後はある人も、ない人もいます。
若くして死ねば、その人に老後はないからです。
しかし死後のない人は一人もいません。
後生に関係のない人は人類70億人のうち、
ただの一人もいないのです。
後生は全人類の100%確実な未来なのに、
後生があるのやら、ないのやら、
サッパリわからないのが実態です。

私たちが生きていることを飛行機が飛ぶことに譬えるとすれば
生まれたときが飛行場を飛び立った時です。
飛び立ったからには、いつかは着陸しなければなりませんが、
もし、着陸できる場所がない飛行機に
乗ったらどうでしょうか?

後生の一大事とは_その2

降りる場所があろうが、なかろうが、
おかまいなしに燃料は刻々と減っていきます。
やがて燃料が切れたら墜落あるのみです。
とうてい機内食や映画を楽しむ気分に、なれるはずがありません。

人生の着陸地は、後生です。
後生どうなるか、わからないまま
後生に突っ込んでいくほど危ういことはありませんから、
これを仏教で「後生の一大事」というのです。

真っ暗闇の中を、目隠ししたまま
全力で突っ走っているようなもので、
いつ何にぶちあたるかわからない。
いや、遅かれ早かれ最後は
必ず後生にぶちあたって粉砕するのです。

なのに、それを忘れて私たちは、
やがて墜落するに決まっている飛行機の中で、
やれ「儲かった!」「損した!」「あいつが憎い!」「こいつが憎い!」…と
浮かれ騒いでいます。
これほどの一大事があるでしょうか?

一刻も早くこの後生の一大事に驚き、
後生の一大事を解決しなさいよと
警鐘乱打なされたがお釈迦さまであり
親鸞聖人だったのです。

2011年11月14日 (月)

「前に向かって生きる」の「前」ってどっち?

お金や財産、家、結婚、子供、地位、名誉…私たちはいろんな幸福を求めて懸命に生きているけど、どんな幸福も、いつか色あせるし、しばらく自分の元にあるだけ。必ず自分からはなれていってしまう、いつか自分を裏切る幸福ばかりだよね。
この間の津波でもわかるように、何十年ものローンを組み、生涯かけて建てた家や財産も、家族も仕事も、一瞬にして奪われてしまう無常のものだ。

そんななか、永遠に崩れない「絶対の幸福」があることを教えられ、この世、生きているうちに、その幸福になる道を教えられたのが、地球上でただお一人、仏のさとりを開かれたお釈迦さまなんだ。私たちが苦しくても生きているのは、絶対の幸福の身になって「ああ、人間に生まれて本当によかった!」と心から喜べる生命の大歓喜を得るためなんだよね。

3.11以来、よく「前に向かって生きよう」と耳にするね。だけど、その「前」ってどっちなんだろう?
新しい町や商店街、マイホームを作ることなんだろうか?もちろんそれらは、生きる上で大切なものなんだが、しかし津波がくれば壊れてしまう、はかない幸福でもある。私たちは幸福が崩れた時に苦しむのだから、せっせと苦しみのタネを作っている、と、いえなくもない。そういうはかない幸福でなくて、永遠に崩れない真実の幸福を求めることが、本当に「前に向かって生きる」ことだと思うんだけど、ちがうかな。

2011年10月29日 (土)

逆境にあるあなたへ

逆境にあるあなたに、ぜひ読んで頂きたい文章を
『123のこころのタネ』(一万年堂出版刊)
という本の中に見つけました。
以下にその一部を書き写します。

剣豪として、幕末にその名を轟かせた千葉周作の
「少し剣術の心得のある三人に囲まれたら、絶対に勝てない」
という言葉が紹介された後に、こう書かれています。


    一人の剣客が一度に何十人も斬るというのは、
    講談やテレビのうえでのフィクションである。
    では、三人以上に囲まれたらどうするか。
   「逃げるしかない」と周作はいう。逃げて逃げて、逃げまくるのだ。
    そして相手との距離が取れたら、振り返って先頭の一人を斬る。
    そこでさらに逃げ、また振り向いて一人を斬る。
    それをくり返しているうちに、後の者は逃げだしてしまう、というのである。

    人生には時として、一度に災難が降りそそぐ。
    地震、台風、噴火、洪水などの自然災害に、築いてきた一切を失い、途方に暮れる。
    病気や交通事故、愛する人との死別や生き別れ、
    老いの不安や子供の心配、人間関係のこじれなど、
    生きる光を失い涙の海に沈むこともある。

    なぜ病気がちなのか、どうして災難が続くのか、なぜ出世できぬのか、
    自分だけが不幸の問屋のように思えて、
    すべてを投げ出して何処かへ逃げだしたくなる。

    (中略)

    川の水を(一度に)飲み干すことはできずとも、ノドの渇きは癒せるように、
    一切は自分の蒔いたモノ、蒔かぬタネは生えぬと反省し、
    一つ一つ誠心誠意、できることから着実に対応してゆけば、
    思わぬ道が開けてくるものである。

                       (『123のこころのタネ』)

2011年10月28日 (金)

お釈迦さまの悲しみ_その1

日本では年間の自殺者が3万人を越えています。一日平均で80人以上。交通事故死者の数は平成4914人で、日に直すと約13.5人です。
では日本で一日3000人、世界で15万人といえば何の数字だと思いますか?一日に亡くなる方の数字です。数字は無味乾燥ですが、亡くなった一人一人に人生があり、家族があり、心残りがあり…と考えていくと、数字の持つ意味に慄然とします。
毎日15万人というと、単純計算で1秒毎に約1.7人。時計がカチッと1秒刻むたび、世界のどこかで2人近い人が亡くなっているのです。この文章をあなたが読み始めてから30秒ほどでしょうか?その間に52人の方が亡くなっている計算になります。

お釈迦さまの悲しみ_その2

ある時、お弟子がお釈迦さまに「大宇宙最高の覚り(仏覚)を開かれたお釈迦さまは一切知者。悲しいと思われることはないのでしょうね」と尋ねると「仏の覚りを開いた私には世間の人のような悲しみはないが、私の心眼には人々が雨の降るようにバラバラと地獄に墜ちていくのが見える。それが仏の悲しみだ」と長嘆息されたそうです。
世界で毎秒1.7人の人が亡くなっていることを考えると、雨の降るように、という比喩が誇張でないことが知らされます。「まだ死なん」と死を遠くに見ているせいで実感がありませんが、いずれ死ななければならないこと以上の悲劇はありません。交通事故死や自殺も悲劇ですが、全人類は例外なく悲劇の渦中にあるのです。

     
     煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
     万のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無きに、
     ただ念仏のみぞまことにて在(おわ)します。
                            (『歎異抄』)

火宅(軒先に火のついた家)に住んでいる人のように不安な悲劇の人生を、一秒より短い一念(いちねん)で、光明輝く人生に転じ変えてくだされる阿弥陀仏の本願が仰がれます。


2011年10月25日 (火)

省みよ 日に幾度も 省みよ

人間は一人一人108の煩悩(ぼんのう)を持っている、と、お釈迦さまは教えられました。100人おれば、1万800の煩悩が集まっていることになるし、1万人おれば108万の煩悩が集まっていることになります。煩悩の「煩」は煩(わずら)煩わせること。「悩」は悩ませること。煩悩によって人間は、日々途切れなく、煩わされ悩まされているのです。

108 の煩悩のうち特に恐ろしいものがある。三つの猛毒をもった煩悩だから、これを三毒の煩悩と教えられます。 その三つとは欲、怒り、愚痴の心です。

欲は、食べたい、飲みたい、楽がしたい、お金が欲しい、人からほめられたい、よく思われたいという心。欲には食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つあって五欲といわれます。

その欲が妨げられると、腹が 立つのです。誰かのせいで設けそこなうと、財欲が妨げられるから「あいつのせいで損をした!」と怒って相手を切り刻む。人前で恥をかかされると、名誉欲が傷つけられるからカーッと腹が立って「あいつのせいで恥をかかされた」と、いつまでも忘れない。カーッと腹を立てた時、人は心の中で「あいつ奴(め)!こいつ奴 (め)!」と相手を心の中で一分刻みに切り刻んでいる。だから「怒」という字は「心」の上に「奴(め)」と書くのです。これが怒りの心です。

ところが相手が、面と向かって怒れないような相手だと、うらみ、憎しみの心がわいてきます。また隣に自分の家より立派な家が建つと、ねたみの心が出てきて「火事が出て隣の家だけ燃えてくれんかな」と思います。これが愚痴の心です。

私たちは、こうした心で日々どれだけ悪を造っているかわかりません。深く反省してみなければなりません。

 省みよ 日に幾度も 省みよ
  欲と怒りの 絶え間なければ

2011年9月13日 (火)

盲亀浮木の譬え_その1

ある時、お釈迦さまが、弟子の阿難(あなん)尊者に尋ねられました。

「果てしなく広がる太平洋のような海の底に。一匹の目の見えない亀がいる。
その盲亀が百年に一度海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太が浮いている。丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は波のまにまに西へ東へ、南へ北へ漂っているのだ」
「百年に一度海面に顔を出すこの盲亀が、浮かび上がった拍子に
丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあるか?」

阿難が「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」と答えると、
お釈迦さまは重ねて「絶対にないと言い切れるか」とお尋ねになる。

阿難は「絶対にか?といわれますと…。
それは何億年×何億年、何兆年×何兆年の間には
ひょいと頭を入れることがあるかしれません。
しかし、ない、といってもよいくらい難しいことです」

お釈迦さまは「ところが阿難よ。人間に生まれるのは、
この亀が丸太ん棒の穴に頭を入れるよりも、有ることが難しい、
有り難いことなのだ」とおっしゃいました。

盲亀浮木の譬え_その2

それほど生まれるのが難しい人間に生まれながら、

「こんなにつらいのなら、生まれてこなければよかった」と恨んだり、
「いっそ死んでしまった方がましだ」と、自殺する人がたくさんいます。
それどころか、そんな人ばかりだといってもいい。

死なないまでも
「さっさと生きて、さっさと死にたい」と思っている人もあるでしょう。

そんな私たちにお釈迦さまは、
「人間の生命は地球よりも重いのだ。
どんなに苦しくても死んではいけない。
それは人間に生まれなければ、できない尊い使命があるからなのだよ」と、
教えてくださいました。

その聖使命とは、阿弥陀仏に救われて
「よくぞ人間に生まれたものだ!」
「人間に生まれてきたのは、この身になるため一つだった!」
という生命の大歓喜を得ることなのです。
それが「人生の目的」です。

生きていれば、色々つらいこと、悲しいことに出会います。
耐え難い苦しみもあるでしょう。
でもどんな苦しみにあっても「生まれた目的」があるなら報われます。

その目的のためならどんな苦労も無駄にならず、
目的を果たしたなら、流した涙の一粒一粒が真珠の玉になって返ってくる、
そういう素晴らしい世界がある。
しかも生きている間に、その世界に出ることができる…

そう教えられたのがお釈迦さまであり、
その教えを正確に、手あかをつけずに伝えてくださったのが親鸞聖人なのです。
一人でも多くの方に知って頂きたいと願うばかりです。

2011年9月 9日 (金)

親鸞聖人は何を教えられたか? その1

今年は親鸞聖人の750回忌です。聖人は今日、世界の光といわれていますが、
では聖人はどんなことを教えられた方なのでしょうか?
何を教えられたから、世界の光と仰がれるのでしょうか?

聖人ご自身にうかがってみましょう。


    難思の弘誓は、難度海を度する大船(『教行信証』総序)


難度海(なんどかい)とは渡ることの難しい、苦しい海のこと。
私たちの人生を喩えられたものです。

次から次へとキリもなく苦しみの波がやってきて、そのたびに深いため息をつく。

地震、台風、失業、病気、親しい人との死別、借金、ハケン切り、介護疲れ・・・
苦しみのタネはつきません。たとえば借金で苦しんでいる人は
「この借金さえなくなれば・・・」と思い、
病気で苦しんでいる人は「この病気さえ治れば・・・」と思います。

しかし


   越えなばと思いし峰にきてみれば、なお行く先は山路なりけり


・・・で、一つ問題が解決しても「やれやれ」と一息つく間もなく、
別の苦しみがやってきます。
「苦は色変わり」で、決してなくなることはない。

「人生は苦なり」のお釈迦さまのお言葉に、
誰もが深くうなずいているのではないでしょうか。

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